話題を聞き解く|車いす警備員 誕生秘話

パラリンピックの会場入り口で業務に当たる濱田さん。声をかけ、名前を確認し手荷物をチェックする(写真:ゼンコー)

開けドア 社会の理解を広げたい

およそ40年間、埼玉県警察本部に勤務した。配属は、事故現場に残された指紋や遺留品、血痕などを捜査する鑑識課。優れた技能が認められて「指紋鑑定官」に任命されるなど、定年まで一貫して鑑識畑を歩いた。すごい人がいる。自家用車で通勤する濱田さんは、職場のある県庁内に知らない人はいない存在だった。

新型コロナウイルスの感染が急速に広がる時期に定年を迎えた。「これからはのんびり過ごしたい」。釣りや映画鑑賞など趣味を楽しむ生活を思い描いていた。転機は、その年の秋。県警時代の上司が自宅を訪ねてきた。「車いすの人で警備員を実現させたい。一緒に取り組みませんか」。

面倒なことになった。かつての上司の誘いをむげにもできないが、引き受けるには不安が大きかった。「現役時代はずっと机に向かう仕事でしたし、そもそも車いすで警備の仕事ができるかどうか」。もっと若い人に、と断ってもあきらめない。元上司は繰り返し訪ねてきた。

新しい雇用の道をつくる
何としても開けたいドア

「何としてでも、車いす警備員のドアを開きたい」。ゼンコーのシニアディレクター、貫田晋次郎さんはかつて、いくつもの難事件を解決してきた敏腕刑事。持ち前の粘り強さは人一倍だ。開かないドアへ、特別な思いがあった。

「競技を引退したパラアスリートで、警備員になりたい人を紹介してほしい」。都内にある、障害者スポーツの振興や普及に努める団体に相談したが、取りつくしまもなかった――まずは障害者が安心して働ける環境を整えてからの話でしょう。

席を立とうとした貫田さんに、担当者が言った。「競技引退後のキャリア形成に対して、私たちは何もできていない」。

イベントなどの警備を手掛ける同社は、女子硬式野球チームを運営するほか、障害者スポーツの支援にも力を入れている。女子力を生かした警備や障害者に対応する警備のノウハウは、他社にはない強み。車いす警備員の誕生は、その象徴だ。

濱田さんは、バリアフリーの考え方がまだなかった、障害者には不便な時代を乗り越えてきた。貫田さんは言う。「トイレや休憩場所などの環境整備は大事。ただ、働く場がなければ何も始まらない。濱田さんに頑張ってもらう意味はそこにある」。

研修の様子を動画に記録。「車いすにもできる」ことを示して取引先に理解を求めた(写真:ゼンコー)

車いすでも「できる」
次の世代へ渡すバトン

警備員としてどこまでできるのかを明確に示せなければ、取引先は仕事の場に就かせてくれない。教育や訓練に入念な準備が続いた。研修の様子を動画で記録して、説得力を高める工夫もした。

心肺蘇生の訓練。車いすから降り、上半身の力だけで強く、速く、絶え間なく人形の胸を押し続ける。90秒間は、健常者でもきついだろう。「60歳を過ぎた体には正直こたえた。ただ警備業界のドアを開けたいという思いが強かった」。

埼玉県内の大学で、学生の入室管理や検温などの業務をインターンとして経験。初めての本格的な警備の仕事が、パラリンピックだった。業務は、会場入り口での関係者のID確認と手荷物検査。3~4週間、近くのホテルに泊まり込んだ。勤務は休憩をはさんで午前8時から夜8時まで。シフトを組んで交代で業務に当たった。休憩時間には横になることを許してもらった。

「警備は車いすでもやれる」。大会警備を終えて確信した。「自分の役割は果たせた」とも思えた。「そろそろ区切りをつけよう」。そうも考えた。

ドアは開いたのだろうか。濱田さんは今も週4日勤務している。ただ、警備の現場からは遠ざかって、研修会場の受付業務とデスクワークが中心になった。「何かあったら」は、取引先が仕事を断る定番の台詞。耳にするたびにドアは開いていない、と感じる。「次の人へバトンを渡すのが、私の新しい仕事だと考えるようになった」。

警備ロボットの活用が広がっている。警備業界を悩ます人手不足と高齢化が背景にあるという。「ある意味、AIと人間の違いだけなのに」。車いす警備員誕生を陰で支えてきた貫田さんはこう話す。

「濱田さんの頑張り、多くの関係者の思いや理解があって実現したが、ドアノブに手がかかった程度。社会の理解を広げたい」

障害を理由にした差別を禁じる障害者差別解消法は、障害者を手助けする「合理的配慮」を国や自治体に義務付けた。昨春の改正で、公布日(2021年6月4日)から起算して3年以内に、企業や店舗などの事業者にも義務化される。

(文・構成 阿久戸嘉彦)

「ノブに手がかかった程度」。車いす警備員の誕生を支えてきた貫田さんの言葉だ

濱田久仁彦(はまだ・くにひこ) 株式会社ゼンコー(さいたま市大宮区)の警備士。1歳のときにポリオ(小児まひ)に感染、両足に障害が残った。高校時代に車いすバスケットボールと出会い、地域のクラブに加入。高校卒業後は民間企業に就職。昭和55(1980)年、クラブの仲間の勧めで埼玉県の障害者採用枠に応募し採用された。令和2(2020)年3月、定年退職。翌年4月、全国初の車いす警備員としてインターンを経験。同年8月、東京パラリンピックの警備に就く。