再考『八ツ場ダム』 松浦茂樹・東洋大教授に聞く【2】

利根川中流部、八斗島付近。群馬県伊勢崎市と埼玉県本庄市を結ぶ坂東大橋

治水計画とダム

1947(昭和22)年、利根川治水計画上の大きな節目になる出来事が起こります。この年9月、カスリーン台風による大出水で利根川の右岸堤防が埼玉県東村(現在の大利根町)で決壊、はん濫水が東京まで達して水尾の被害が出ました。これによって計画が見直され、2年後の1949(昭和24)年に策定されたのが「利根川改修改訂計画」です。

注目したいのは、この計画にダムによる治水対策が盛り込まれたこと。大河川の代表格である利根川本流では、治水を目的とした初めてのダム計画でした。では、治水対策としてのダムに、どんな意味があったのでしょうか。

ダムは下流部に近いほど洪水調節の効果が大きくなります。計画では、規模があまりにも巨大で地域社会に多大な影響があるとして後に幻と消える「沼田ダム」を中心に、その上流の「藤原ダム」、片品川の「薗原ダム」、赤谷川の「相俣ダム」、神流川の「坂原ダム(現在の下久保ダム)」、そして吾妻川の「八ッ場ダム」が検討されます。

その治水計画は洪水の全てを河道で負担する考え方でしたが、改訂計画はこれに加えて上流山間部で洪水を貯水し、洪水のピーク流量を調節する考え方です。

改訂計画は、烏川との合流直後、坂東大橋の八斗島(やったじま、写真)の流量をカスリーン台風時の観測数値から換算して、毎秒1万7千立方メートルとしました。そのうち毎秒3千立方メートルをダムで調節し、残りの1万4千立方メートルを流下させるものです。

今後の治水対策を考える時、基本高水流量(治水計画の基本で、洪水時の最大流量)としての、この数値の妥当性が重要な意味を持つと考えています。

200年に1回の洪水

1980(昭和55)年、計画は達成にほど遠い中で改訂されます。しかし、この改訂にはこれまでとは大きく異なる点がありました。それは、既往最大洪水主義から「超過確率洪水主義」への大転換で、日本の治水対策を考える上でとても重要な意味を持っています。

200年に1回、あるいは150年に1回発生する洪水に対処する。現在の治水対策の説明でよく聞きます。大豪雨といっても降雨量はその降雨ごとに違いますし、利根川の大きな流域(集水域)では地域ごとに降り方が違います。超過確率洪水主義は、降雨量や降雨パターンなどからある数式によって洪水量を算出できるとの考え方に基づくもので、これまでの観測数値から流出モデルを作成して洪水量を求めます。

では、この大転換で何が起こったか。利根川の場合、他の河川にはない問題が生じました。現在の計画は、八斗島地点の基本高水流量を毎秒2万2千立方メートルとしていますが、確率的に求めた流量はこれよりも若干小さく、カスリーン台風時の降雨から評価したものです。

一方、改訂前の毎秒1万7千立方メートルは、複数の観測地点の観測数値から算出されたとはいえ、根拠は明らかです。では、3割も増えたのはなぜか。流域・河道のその後の変貌により増加したのか、適用した流出モデルに問題はなかったのか。それらを明らかにすることに、八ッ場ダムの治水効果を考える手がかりがあり、重要な出発点になると考えています。