大型公共事業の無駄をなくす機運が高まる中で、ダム問題を考える時、私たちは何を手がかりにすればいいのか。効率や合理性だけでなく、川と暮らしが深く関わってきた日本の歴史、公共事業の役割や生い立ちなど多様な面からアプローチしたい。
「これまで築造してきたダム群は社会的なストック。時代に合った運用をすべき」と指摘する東洋大学国際地域学部の松浦茂樹教授は、河川と国土開発の歴史に詳しい。今号から松浦教授のインタビューを連載し、八ッ場問題を考える。 (本誌・阿久戸嘉彦)
※この記事は、月刊RIVER LIFE(2009年11月号)に掲載したものです
八ッ場ダム再考の手がかり
海外で行われていたダムが日本に紹介されたのは明治時代。本格的なダム建設の時代が訪れたのは大正時代で、発電用ダムが各河川に造られました。
利根川水系で国直轄のダムが最初に計画されたのは鬼怒川です。治水計画にダムを取り入れ、1926(大正15)年に調査が始まりました。これが、五十里ダムです。しかし、ダムの計画地に大きな断層が発見され中止になっています。
その後、利根川水系でダムを取り入れた治水計画ができたのは戦後。1947(昭和22)年9月に発生したカスリーン台風の大水害がきっかけでした。この時の出水状況が丹念に調査され、利根川上流の山間部にダムを築造する利根川改修改訂計画が1949(昭和24)年に決定されました。
大切なことは、現在のようなダムを中心にした治水の考え方になったのは戦後から高度経済成長期ということです。それまでは、築堤による治水が中心でした
堤防と地域の対立
利根川は上流に浅間、榛名、赤城など火山が多く、多くの土砂を運びます。中流部の埼玉はかつて、利根川が乱流、はん濫した地帯で、土砂が堆積しやすく自然堤防が発達しています。はん濫の影響を受けにくい自然堤防上には人が住みつき、畑作が発達しました。一方、稲作は水が溜まる低い土地、自然堤防の後背湿地で発達しました。
人々は点在する自然堤防を築堤して繋ぎ、あるいは大切な土地を堤防で囲うなどして洪水から守りました。かつて日本にはさまざまな治水の技術や知恵がありました。
利根川の中流部、日本資本主義の父と言われる渋沢栄一が生まれた埼玉県深谷市。その少し下流に大変興味深い堤防があります。中条堤と呼ばれ、現存していますが、この堤防は利根川に沿うのではなく、川と直角の方向に張り出すように伸びています。
中条堤の直下流で、利根川は対岸堤防とで狭さく部が造られています。洪水はこの狭さく部で行き場を失い、中条堤に沿って滞留する。堤防によって大遊水地帯を造って、流量をコントロールして下流を守る仕組みです。当然、中条堤の上流側は水に浸かって甚大な被害が生じるので、高くしたり強くしたりしたくない。一方、下流側は自らの安全のために行いたい。中条堤を挟んで地域が対立したことから「論所堤」といわれました。
こうした地域対立はかつて全国の河川で起こり、堤防の高さなどを巡って左右岸、上下流の地域でしばしば利害関係が激しく対立しました。その中で一定の治水秩序が成り立っていった歴史があります。